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【書評】清水真人『財務省と政治 「最強官庁」の虚像と実像』(中公新書、2015年)

April 28, 2016

評者:村井 哲也(明治大学法学部非常勤講師)

1.はじめに ―壮大な政官関係論―

戦後政治のなかで大蔵省は、「最強官庁」の名をほしいままにしてきた。

各界におよぶ広く深いインテリジェンス=諜報力、周到な根回しから絶妙な落としどころを探る総合調整力、そして、与党・自民党と築きあげた「共犯関係」は他省の追随を許さない。五五年体制下の派閥政治の爛熟期には、予算編成を通じ権力の司祭たる竹下登との蜜月を築き上げ、実質的な政治プレーヤーとして振る舞った。

ところが、大蔵省が土台を支えたコンセンサス型の「昭和デモクラシー」は、1990年代に入るや、バブル崩壊と小選挙区制の導入に見舞われる。そこから、改革派の登場や大蔵省解体論がもたらされ、中央省庁再編で財務省へと変貌するなか、首相主導型の「平成デモクラシー」への移行が始まった。

本書は、この政治優位への25年に受け身の撤退戦を強いられる、「最強官庁」の虚像と実像を描いたものである。既に著者は、首相官邸や自民党、大蔵省の担当記者としての豊富な現場取材に基づき、数々の話題作を世に送り出している。本書でも、膨大かつ貴重な情報がギュウギュウに詰め込まれ、それにもかかわらず、鋭角な分析でストーリーラインを練りこんでいく手法は健在である。

その結果、ありがちな財務省論には止まっていない。タイトルに表れているように、統治構造を中心とした改革の時代を俯瞰する壮大な政官関係論こそが、本書の本質である。それは同時に、改革の時代から安倍1強へと移り変わった「いま」を見極めるための、重要な示唆を提供するものでもある。

2.本書の構成と概要

まえがき(ⅰ-ⅶ頁)

序章  五五年体制 ―自民・大蔵の「共犯システム」(1-16頁)

第1章 「無謬」神話の終わり(17-64頁)

第2章 金融危機と大蔵省「解体」(65-114頁)

第3章 新生・財務省と小泉政治(115-166頁)

第4章 政権交代とねじれの激流(167-224頁)

第5章 アベノミクスとの格闘(225-282頁)

終章  最強官庁のいまとこれから(283-297頁)

本書は、前史となる序章に始まり、第1~5の本章で1990年代から2014年12月の総選挙までを時系列で綴る構成となっている。第1章では非自民連立政権、第2章では金融危機と橋本行革、第3章では小泉構造改革、第4章では民主党政権、第5章ではアベノミクスと、それぞれの時代が描かれる。これらの変遷を踏まえ、終章では第3次安倍晋三政権の動向と今後の展望で締めくくられる。

以下、各章の概要と注目すべきポイントをごく簡潔に記したい。

序章では、自民党と共犯関係を築き上げた大蔵省が「最強官庁」となった構造が述べられている。この政官融合による「縦割り・積み上げ・全会一致」のコンセンサス型で政権運営のファンダメンタルズとなったのが、予算編成を基軸に着地点から逆算して打つ手を熟考する政治カレンダーであった(2-3、まえがきⅳ頁)。その極致が1980年代の「竹下カレンダー」であったが、やがてバブル崩壊と改革の時代が訪れる。

第1章では、1993年の細川護熙政権の誕生で長年にわたる政官関係が転換したことが描かれる。政権転落した自民党が衝撃だったのは、大蔵省が非自民連立政権の最大実力者であった小沢一郎に接近したことであった(19-20頁)。反小沢の怨嗟はやがて反大蔵の空気を醸成し、自社さ政権では改革派が登場しはじめる。さらに大蔵省が官僚不祥事や住専処理で躓くと、「無謬神話」は次第に失墜していった。

第2章では、1996年に小選挙区制下で初の総選挙が実施され、世論に基づく政権選択の機会が大蔵省改革を促したことが浮かび上がる(71-72頁)。大蔵省が大型連鎖破産や接待摘発で守勢に立つと、橋本行革では財政と金融の分離のみならず、通産官僚の策動から首相主導型の内閣機能強化まで謳われた。政策新人類、民主党、竹中平蔵といった改革派が勢いづくなか、共犯関係の象徴たる竹下登は逝去したのであった。

第3章では、2001年に誕生した小泉純一郎政権の構造改革と官邸主導に新生・財務省が翻弄されていく姿が描かれる。経済財政諮問会議や竹中ら官邸チームに聖域を設けられ、消費税増税も封印されてしまう。一方で、この新局面を迎え、「主張すべきは主張する」というオープンな議論へと戦略転換を図り始めたとの指摘は注目に値する(135-136頁)。ともかくも、急速に少子高齢化が進むなかポスト小泉の焦点は消費税増税となっていく。

第4章では、2009年の民主党政権による政治主導の内実が、予算編成や人材供給の面で財務省依存だったことが考察されている。それでも、この本格的な政権交代が政治カレンダーを崩した先例をつくったことは(217-218頁)、安倍復権後も予兆させて興味深い。結局、政権迷走のなか埋蔵金幻想が崩れると、特に藤井裕久・野田佳彦ラインが消費税増税に邁進し、その三党合意と引き換えに衆議院は解散された。

第5章では、2012年末の安倍復権と「政治判断」のアベノミクスで財務省外しが進んでいく様が描かれる。リフレ派や経産官僚の重用、序列を突き崩す官邸人事、そして「竹下カレンダー」の破綻。長期ビジョン不在の株価偏重に危機感を覚えつつ、官邸との意思疎通はままならない。ついには、消費税10%包囲網への逆張りの首相主導で、再増税延期とともに青天霹靂の「財務省解散」に直面した(280-282頁)。

終章では、まず、2014年末に発足した第3次安倍政権との縮まらぬ距離が概観される。財政規律の低下や人材細りが懸念されるなか、財務省は、小泉政権以来のオープンな議論を試みている。それが、国民やメディアとの対話による積極広報の手探りである。世論を意識せざるを得ないこの時代に、不可避の生き残り策かもしれない。

最後に、今後の展望が述べられる。「最強官庁」の後退は、統治構造改革の帰結である。とはいえ、政治の根幹たる税財政を担う官庁は政局に巻き込まれる宿命にある。いまだ政官関係は過渡期にあり、政権交代と首相主導の「平成デモクラシー」が成熟すれば、やがて新たな均衡へ向かうだろう(296-297頁)。

3.意義と論点 ―改革の時代の先に―

本書の意義

以上を踏まえ、評者なりに本書の意義を述べてみたい。

本書の意義は、まず、統治構造改革に基づく25年の政官関係の変遷を、財務省というスコープを通じて立体的に浮かび上がらせていることにある。それが可能となったのは、著者による緻密な現場取材の賜物である。背景となる個人関係、力関係の所在、感情の機微と駆け引き。これらが説得的に集積されて、読者は、本書が議院内閣制の本質的な議論を投げかけるものであることに気づくであろう(5-7頁)。

国会研究で指摘されるように、日本の内閣は制度的に国会から断絶されているため、与党・自民党と官僚機構の密接な政官融合によってタイトな審議日程をこなしてきた。大蔵省や竹下登による政治カレンダーは、そのための政治的知恵として絶対視されてきた。だが、本書に見られるように、その融通の利かなさへの苛立ちが、時にメンツありきの首相主導をもたらしている。その折り合いは、未解決の政治課題である。

行政学の研究で指摘されるように、政権交代時代では、官僚機構が特定の政党と密接な政官融合を築くことは難しくなっていく。政局に深入りして総合調整力を発揮すれば、党派性を帯びて次の政権交代で報復可能性を残す。さりとて中立性を貫けば、自らの政治交渉力と意欲は低下する。あるいは、政権交代に基づく首相主導は様々な安定性を損なう可能性も高まる。これらのディレンマは、普遍的な政治課題である。

さらに本書の意義は、ジャーナリズムとアカデミズムの役割分担と接点の議論を活性化させることにある。ジャーナリズムの重要な役割の一つは、現場からの生情報をふんだんに提供することにあるが、著者はこの蓄積を活かしつつ、全体像を俯瞰した枠組みを作り上げるというアカデミズムの役割も貪欲に吸収しようとしている。それは、初期の著作に比べ参考文献が格段に充実したことにも表れている(298-300頁)。

その結果、(もちろんアカデミズムもその傾向なしとしないが)「改革」「主導」「最強」といったジャーナリズムが心躍らせがちなワンフレーズの見出しや魅力的な神話から、一歩距離を置いて描くことに成功している。そこで描かれるのは、「最強官庁」は健在か転落したかという単純な二者択一でない、等身大の財務省の姿であった。

そもそも議院内閣制の下では、財務省が他省の追随を許さない必要条件を持つにしても、政治権力という十分条件なしに「最強官庁」たり得ない。五五年体制下の派閥政治を前提にした時代が変れば、経産官僚(通産官僚)が台頭したように、十分条件もまた如何様にでも変わる。政官関係をめぐるワンフレーズや神話の影響を認めつつ、これらに振り回されず丁寧に虚像と実像を解きほぐしているのも本書の白眉である。

提起したい論点

ついで、本書の意図を超える無いものねだりであることを承知の上で、意欲旺盛な著者に対する次回作への期待を込め、若干の論点を提起したい。

繰り返すように、統治構造改革に明け暮れた25年の政官関係の変遷を詳細に検証するのが本書の本質である。それでは、この統治構造改革の目的とは、いったい何だったのであろうか。単に、政権交代と首相主導が実現すれば良かったのであろうか。いや、硬直化した政官関係に民意の反映によるダイナミズムをもたらし、ポスト冷戦・ポスト成長時代の激しい変化に対応することだったはずである。

本来、改革とは目的のための手段である。だが、25年という余りに長い時間が過ぎれば、当然ながら目的とすべきことは目まぐるしく変化する。政も官も目的を見失ううち、いつしか改革が目的と化してしまった観がある。その果てが、民主党政権の失敗である。

民主党政権や安倍1強などの出現で、手段である政権交代と首相主導がある程度は実現しているのかもしれない。しかし、本書で示されているように、少なくともポスト成長時代の財政再建に関して言えば、統治構造改革の本来の目的が実現しているとは言い難い。それはいったい何故なのであろうか。政官関係の変遷を追うことに加え、著者には、この疑問への見解をもう少し示して欲しかった。

これに関連して、さらに1つ論点を提起したい。

本書は第4章で、改革の時代の限界を示唆している(190-191頁)。それは、民主党政権の甘い財源論の「戦犯」たる小沢の時代的記憶に象徴される。小沢が権力最中枢にいたのは、自民党幹事長であった1989-1991年のバブル絶頂期。財政赤字は深刻でなく、大蔵省神話は健在であった。1990年代にバブル崩壊、金融危機、財政赤字の悪化がもたらされると、時代はすっかり変化していた。改革派の誤謬はここにある。

だが、さらに深刻な変化は、その進展を甘く見ていた2000年代からの少子高齢化であろう。民主党政権が目の敵とした公共事業費は既に小泉政権時代に削減され、最大の赤字要因は社会保障費となった。高齢者の政治パワーを考慮してか、安倍政権がこの根本的な部分に首相主導を発揮する気配は、いまのところない。

本書は終章で、将来世代の政治家の可能性に触れているが(289-290頁)、全体的には、その手段である消費税増税やデフレ脱却の攻防が主題である。しかし、やがてアベノミクスという政治的なモラトリアムが終焉すれば、いよいよ少子高齢化と「負担の分配」は待ったなしとなる。この深刻な問題を、この25年の政治権力と財務官僚はどのように認識してきたのであろうか。これも、本書で知りたかったところである。

泥をかぶる憎まれ役

以上の無いものねだりの論点はさておき、本書が、重要な示唆が詰め込まれた刺激的な書であることに変わりない。そこで改めて感じることは、政官関係のあり方にせよ、目的とすべきことは何かにせよ、改革の時代と神話が終焉したいま、冷静かつ率直に具体的なことを議論すべき時にきていることである。

振り返ってみれば、財務官僚(大蔵官僚)は、「最強官庁」の神話を利用して自らの政治交渉力を高めてきた。虚像のイメージは、実像のパワーとなり得る(まえがきⅶ頁)。過度に政治の領域に踏み込んだその姿は、確かに傲慢なエリート意識を伴ったかもしれない。それが1990年代のスキャンダルとバッシングの源になったのも否定しがたい。

しかし、たとえ傲慢であっても、溢れるばかりの国家への使命感を伴うのがエリート意識でもあった。「泥をかぶる」「憎まれ役」(287、296頁)を演じる責任と覚悟がなければ、政治の領域に踏み込むことなど、できはしない。そして、政治権力の側は、権力闘争、世論の説得、支持者への言い逃れのため、泥をかぶる憎まれ役の財務省(大蔵省)を都合よく何度も利用してきたのである。

統治構造改革の帰結として、政権交代と首相主導が導かれれば、「最強官庁」が後退するのは不可逆なのかもしれない。だが、それならば政治権力の側に、泥をかぶる憎まれ役を演じる責任と覚悟に支えられた国家への使命感はあるのだろうか。もはや都合よい「最強官庁」はいないことが、その前提である。

同じ問いかけは、われわれ国民自身にも突き刺さる。なぜなら、政権交代と首相主導を導くのは、世論を選択していく国民だからである。それは、「平成デモクラシー」が追い求めて来たものであった。少子高齢化と「負担と分配」の時代に、具体的な責任と覚悟が国民に求められるのもまた、統治構造改革の帰結なのであろう。

    • 政治外交検証研究会メンバー/明治大学非常勤講師
    • 村井 哲也
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