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生命倫理政策の基本を探る―ヨーロッパとアメリカの取り組み

April 12, 2017

橳島次郎 研究員
冨田清行 研究員

不妊のカップルがほかの人から卵子をもらって、あるいは子宮をもらって移植し、子どもをもうけていいだろうか。これから生まれてくる命のゲノムを編集して人為的に病気や障害をもたないようにすることは許されるだろうか。昨今話題になっているこうした議論にみるように、急速な先端医療技術の発達は人間の生命と身体に深く介入し、これまで不可能だったことを可能にすると同時に様々な課題を生み出している。

東京財団ではこれまで、進展し続ける先端生命科学・医学の研究と臨床応用の何をどこまで認めるかについて、社会の意思決定を行うための根拠となりうる理念の構築を研究してきた( 生命倫理の土台づくりプロジェクト )。さらに、生命倫理政策を考えるうえでは、様々な立場の人が参加して議論する社会的土台を形成する必要があるという視点に立ち、生命倫理について議論する場を提供してきた( 生命倫理サロン )。科学を有用性から切り離し自由を確保する科学的土台から、医学への展開を規律する医学的土台の形成が必要なのは明らかで、これらが相互に影響しながら最終的に法的土台の形成につながっていくというプロセスを目指し、2016年度は法的土台、日本の公的な規範づくりのための基礎研究として、各国比較―ヨーロッパおよびアメリカにおける生命倫理規範分析を試みた。

先端医療技術の進展に対応できない基本ルール不在の現状

脳死と臓器移植、生殖補助医療、出生前診断、遺伝子検査、再生医療など、日本ではこうした問題が起こるたびに、個々にルールを定めてきた。しかしながら、立法による解決は、一部のクローンや一部の臓器移植のみと対象も極めて限定的な範囲にとどまっているのが現状である。行政指針も包括的な基準となるようなものはなく、医師や看護師の専門職団体の倫理規定においては当該専門職を拘束するのみで、生命倫理全体を貫くルールはおよそ存在していないことがわかる。これでは、生命倫理政策の全体像が見えず、研究や臨床の現場だけでなく、一般社会にも戸惑いや混乱を招くことにもなるだろう。実際、ルール不在によるこうした個別対応は、生命倫理全体に通じる、誰の何を守るべきなのかという基本的な視点を欠き、例えば、法規制対象内外の臓器移植の管理のばらつき、クローン法や指針による発生生殖研究規制の齟齬や不合理さ、再生医療と新薬開発とそれ以外の臨床研究の規制の整合性の問題、患者や研究参加者などの救済措置のあり方などの問題を顕在化させている。

こうした状況に対し、識者の間では、乱立した指針をまとめ「生命倫理基本法」を制定する必要があるとの声が上がるようになった。しかし、いまだ具体的な政策案の策定に取り組む動きはない。そこで、生命倫理をめぐる公的な規範としての基本法はどのようなものがふさわしいか考えるにあたり、先端医療が国境を越えて行われていることに鑑み、他国の規範を比較研究し、国際標準を抽出することを試みた。法体系や宗教観、文化歴史的背景にかかわらない普遍的な生命倫理政策を抽出し、日本の現状と照らし評価すること、そして、それを通じて日本における生命倫理政策の基本を探り、さらに具体化することで、日本にとってふさわしい公的規範の形成に結び付けるのが、本研究のねらいである。

本稿では、ヨーロッパとアメリカ、それぞれの生命倫理政策の基本と呼べる規範を取り上げ、概要を中心にその内容を紹介する。

分析対象とした規範

ヨーロッパでは、先端医療技術を適正に管理するための公的規範(とくに立法)のありようは、国によって様々である。しかし国による違いを調整し、標準化していこうとする取り組みも行われてきた。その具体的な成果が、地域国際人権機関であるヨーロッパ評議会(Council of Europe)が制定した「人権と生物医学条約」と、ヨーロッパ連合が策定した「基本権憲章」である。

この条約と憲章には、ヨーロッパ諸国の生命倫理政策の理念と内容の最大公約数が表現されている。それらを分析することで、ヨーロッパの生命倫理政策の基本を抽出できる。

一方、アメリカでは、連邦レベルの立法は、研究倫理体制や臓器移植、遺伝子検査など限定的なものにとどまり、州法もアドホックである。生命倫理上の公的規範の形成を担ってきたのは裁判所であり、特に1980年代以降、生殖補助医療を中心に判例が積み重なってきた。

ただし、こうした立法や判例は膨大な数に及ぶため、そのすべてを網羅的に分析することは生産的でない。そこで本研究では、アメリカ医師会(American Medical Association)が採択している医の倫理規程(Code of Medical Ethics)に着目した。この規程は、医療実践と医学研究の倫理に係る体系的な規範として実際的な役割を果たしており、アメリカにおける生命倫理政策の基本を探ることができると考えた。

法的拘束力をもつ唯一の国際規範

ヨーロッパ評議会が制定した「人権と生物医学条約」は、正式名称を「生物学および医学の応用に関する人権および人の尊厳の保護のための条約 Convention for the Protection of Human Rights and Dignity of the Human Being with regard to the Application of Biology and Medicine」という。本条約は、現在、生命倫理関係で唯一、法的拘束力をもった国際規範である。

人権と生物医学条約(以下、「条約」という)は、1996年に採択された主要規範を定める本条約と、個別分野の細則を定める付属議定書(現在まで4本採択)から成る。本条約は、2017年1月末現在、加盟47カ国中35カ国が署名、29カ国で批准、発効している。

本条約では、総則、同意、私生活と情報、ヒトゲノム、実験研究、生きている人からの移植、人体要素の無償について規定が設けられている。総則では、生物学・医学の人への応用において守られるべき基本原則として、人間の尊厳と自己同一性の保護、身体の統合性(integrity)の保証、人の利益と福祉の社会・科学の利益に対する優越などが定められている。付属議定書では、人クローン産生の禁止、臓器・組織移植、医学研究、遺伝子検査について細則が定められている。

人権とは個人の自由権をも制約する社会全体の公益

ヨーロッパ連合基本権憲章(Charter of Fundamental Rights of the European Union)は、2000年12月、ヨーロッパ議会・理事会・委員会の議長・委員長の名により公布された。当初は「宣言」で法的拘束力はなかったが、2009年12月、リスボン条約の発効に伴い、修正されてヨーロッパ連合基本条約と同等の法的地位が与えられ、連合諸機関と加盟国政府に対し法的拘束力をもつことになった。つまり基本権憲章(以下、「憲章」という)は、ヨーロッパ連合の「憲法」の人権条項に相当するものである。

憲章は、尊厳・自由・平等・連帯・市民権・(刑事上の)公正の6部と実施規定で構成されているが、生命倫理関連の主な規定は、第1部「尊厳」に置かれている。そこでいう「人間の尊厳」とは、日本国憲法が定める「個人の尊重」(第13条)とは異なり、人間一般がもつ価値(保護法益)を示している。人間の尊厳は社会全体において守られるべき公益ないし公序であり、個々人の自由と権利とは独立したものと位置づけられる。つまり生命倫理上の人権は、個々人の自由権で尽くされるものではなく、社会全体の公益として、個々人の自由をときに制限するものと位置づけられているのである。これはヨーロッパの人権認識の特徴であるといえる。

憲章の生命倫理関連条項の内容をみると、条約の規定がほぼ援用され、それらをさらに凝縮してコア部分を絞り出した感があり、ヨーロッパの生命倫理政策の「基本の基本」を示しているといえる。それは以下の6つにまとめられる:

  1. 人間の尊厳の保護
  2. 個々人の身体の統合性の尊重(憲章には精神の統合性も加えられている)
  3. 自由な、情報を知らされた上での同意(を医療や研究の要件とする)
  4. 人体とその一部からの金銭的利益取得の禁止
  5. クローン人間産生の禁止
  6. 遺伝形質に基づく差別の禁止

両規範における差異

憲章に規定があって条約に規定がないのは、「優生学的施策、優生学的目的による人間の選別の禁止」であるが、その代わりに条約では、「子孫のゲノム変更の禁止、性選択の禁止」が規定されている。

このほかに、条約に設けられた「人間の利益と福祉が、社会・科学の利益より優越する」との規定も憲章には明記されなかったが、重要な意義がある。この基本原則は、国際連合においてユネスコが2005年に採択した「生命倫理と人権に関する世界宣言」にも規定されている。

医師が直面する倫理的課題解決の手引き

アメリカ医師会は、医療の発展を目指して、1847年に設立された専門職団体である。科学的進歩や医学教育の標準、公衆衛生の改善などを目標として掲げており、その中に医療倫理への取り組みも含まれている。「医の倫理規定」は、1847年の団体設立当初に採択された。

医師としての中心的課題である倫理への取り組みは、アメリカ医師会の重要な役割である。医の倫理規程(以下、「倫理規定」)は、アメリカ医師会内の倫理法令問題委員会が策定や見直しなどを担当しており、これまでに採択当初から何度か修正が行われてきた。現在は、9条から成る「医療倫理基本原則」と、この基本原理を現実の課題に照らして具体的に説明する「倫理法令問題委員会見解」(文書にすると約200頁)の二つのパートで構成されている。

倫理規程は、医療現場や医学研究の場で倫理的課題に直面する医師にとって、それを解決するために必要とされるものである。したがって、その内容は、患者-医師関係、意思決定、守秘義務などの基本的な問題から、遺伝子・生殖医療、臓器移植といった先端医療技術にかかわる問題、医学研究における問題、さらには終末期医療における問題まで、医師が直面する倫理的課題への対応を網羅的に、かつ具体的に示している。倫理規定が、医療界のみならず、患者を含めた米国社会全体に大きな影響をもつことがわかるだろう。

倫理規程の性格と特徴

倫理規程は、医師の倫理的行動を示すために、医師自身による自律的な専門職団体が自主的に決めたものであって法令ではない。しかしながら、倫理規程はアメリカ社会に重要な役割を担っている。アメリカにおいて、医師免許は州政府が監督しており、その監督上、懲戒事由に倫理規程違反を定めている州や、直接に引用していなくても倫理規程を参考としている州もあり、民間団体の定めた倫理規程が州政府の判断に連結している。また、司法の場においても、判例に引用されるなど、行政や司法の判断の根拠となっていることから、アメリカ医師会という一団体の決まりごとを超えて、生命倫理の共通した「ものさし」になっているといえる。

初めに採択されてから170年が経過するなかで、倫理規程は、その歴史を見るといかに現実社会に対応してきたかがよくわかるし、それは医療の進化そのものといえる。当初は「医師の倫理」という性質が強く出ており、医師の義務のみならず、患者や社会が果たすべき義務まで定めていたが、その後の社会の変化に応じて、特に患者の権利の確立により、医師に対して、患者の自己決定権やインフォームド・コンセントの重視を求めるようになった。また、医療技術の発展は、生殖補助医療の配偶子提供者や代理母、臓器移植の臓器提供者などの存在のように、患者-医師の二者間の関係ではおさまらない、第三者がからむ複雑な関係を生み出しており、複数当事者間の利害調整の必要性が高まってきている。さらに、遺伝子技術のように、個人の問題をはるかに超えて人類全体への未知のリスクにも医師は対処しなければならず、その手引きとして、倫理規程は現実社会への対応を続けている。

長年にわたって社会に根差し、現実の医療そのものを反映していることから、倫理規程は医療倫理の普遍性をも兼ね備えている、という見方もできるのではないだろうか。そうした観点から、ここから普遍性を抽出してみよう。

医師の患者に対する最善の利益への責任

医療倫理基本原理において、「人間の尊厳と権利への共感と尊重」が第一条で表明されている。その具体性として筆頭に挙げられるのが、患者の最善の利益の確保であろう。特に先端医療技術を利用する場合、様々な利害関係が生じるが、まずは患者にとって何が最善か、そして、それをどうやって守るかを最優先に考えるべきこととして示している。

次に、患者の自己決定権の確保である。これは具体的にはインフォームド・コンセントの保証である。倫理規程は、治療上の決定や医学研究への参加の場面において、患者や研究参加者(被験者など)の同意を得る必要性を繰り返し述べている。複雑な利害関係をもつ多数の関係者が関与する医療においては、意思決定に至るプロセスを丁寧に進める必要がある。単に同意を得ることだけでなく、どのような情報を提供すべきか、患者はどのような点について考えるべきなのかを明確に示していることも特徴的だ。すなわち、倫理規程は医師のみならず患者や家族の立場としても、何を考えるべきかがわかる、関係者が共有できる規程であるといえる。また、先端医療技術の利用によって、多様で複雑な利害関係も発生することから、医師の利益相反については、十分に注意が求められる。倫理規程は、この点でも様々な場面での利益相反のおそれを具体的に示し医師としての責任を果たすように明示している。

医師が直面する具体的な倫理的課題に関する膨大な経験から、アメリカにおける生命倫理上の普遍的な課題と解決の指針が抽出され、それがこの倫理規程を成しているといえるだろう。ほかにも、倫理規程は、社会との関わりや国際的な貢献などの生命倫理上の普遍的な問題を含み、それらへの具体的な対応を示している。そこにアメリカの生命倫理の基本を見出すことができるだろう。それは次の6つの点にまとめられる:

  1. 人間の尊重
  2. 患者の最善の利益の保護
  3. 患者の自発的な自己決定(インフォームド・コンセント)の保証
  4. 利益相反の回避
  5. 個別患者の利益と社会の利益の調整(遺伝子技術への慎重な対応)
  6. 国際的なガイドラインへの貢献

日本にとっての意義

ここまで見てきたヨーロッパの規範は、生命倫理分野で決めるべき必要最小限の規範のセットを示しているといえるし、アメリカのそれは、現実に生じている(または生じ得る)倫理的課題に対し、患者の権利を最優先にした具体的な保護策を提示している。そしてこれらは、それぞれ条約、憲章、専門職団体の自主的規範という性質や立場が異なる点はあっても、今後日本が取り組むべき生命倫理政策の基本理念を明らかにするうえで大いに参考になり、意義深い。

とりわけ、生命倫理は人権問題であり、決して個々人の道徳観や死生観に還元される問題ではなく重要な政策課題であること、そして、実験研究の対象者の保護や生きている臓器提供者の保護、個人情報保護と遺伝子検査の規制など、日本で規範がいまだ確立していない課題について、先進国に求められる標準的ルールを参照できること、さらには日本のみならずアジア・環太平洋圏における国際規範の調整にも有益だろう。

そうした基本課題を日本でどのように実現していけるか。根本原理としての人間の尊重の確立にはじまり、それを具体的に実現する方策の立案への展開が求められる。

表 ヨーロッパとアメリカの生命倫理政策・日本にとっての意義



    • 元東京財団研究員
    • 橳島 次郎
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