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【書評】渡辺昭一編著『コロンボ・プラン 戦後アジア国際秩序の形成』(法政大学出版局、2014年)

August 18, 2014

評者: 林 大輔 (公益財団法人世界平和研究所研究員)

はじめに

「コロンボ・プラン」とは、正確には「南・東南アジアでの共同経済開発のためのコロンボ・プラン」(後に南・東南アジアからアジア・太平洋へ改称)という、1950年1月のコロンボ(スリランカ最大都市)でのコモンウェルス外相会議で提案された流れを受けて成立した、国際開発援助のための枠組のことである。イギリス帝国史研究では、帝国=コモンウェルス再編の時期に当たる1940年代末から1950年代にかけて取り上げられるテーマのひとつであるが、枠組としては実は現在も存続中である。
本書はそのようなコロンボ・プランに焦点を当て、より複眼的な視座から体系的に分析しようと試みた国際共同研究であり、編者を中心とした科研費プロジェクトの成果である。なお本書の英語版もその後併せて刊行されている。(Shigeru Akita, Gerold Krozewski and Shoichi Watanabe, eds., The Transformation of the International Order of Asia: Decolonization, the Cold War, and the Colombo Plan (Routledge, published 8 July 2014)).

本書は、コロンボ・プランが果たした歴史的役割とは何か?という点を根本的問題に据えた上で、特にコロンボ・プランが形成され積極的に展開されてきた1950年代から60年代のアジアの持つ時代性ともいうべきいくつかの諸要素に着目しながら、この問題を検証している。それはすなわち、冷戦・脱植民地化・開発主義などであり――より具体的には、イギリスによる帝国支配の解体に伴う帝国=コモンウェルス体制の再編、アジアにおける冷戦の高まりとその反作用としてのアジア諸国の自立性の志向、そしてアジア諸国独立後の権威主義体制下での安定的秩序確立の手段としての開発主義、などであった。このような時代の持つ特性の中に、コロンボ・プランがどのように有機的に組み込まれてゆき、運用され、どのような役割を果たしていったのかという点に着目している。それだけに本書の問題意識としては、アジアの脱植民地化、イギリスからアメリカへのヘゲモニーの移転、そして冷戦体制下でのアジア諸国の第三極的志向、といった諸要因の相互連関を視野に入れながら、コロンボ・プランをめぐる国際的援助戦略の展開過程を分析することで、その歴史的役割とアジア諸国の自立性との関連を問うている。

本書はこのような問題意識のもと、1. コモンウェルスの再編、2. スターリング・バランス問題、3. アジア諸国のイニシアチブ、そして4. 日本の役割、という4つの分析視角から、この問題を問い直そうと試みている。本書の構成は以下のとおりである。

序章 「戦後アジア国際秩序の再編と国際援助」(渡辺昭一)
第I部 ―イギリスの脱植民地化とコロンボ・プラン
第1章 「コモンウェルス体制の再編構想とアジア開発援助」(渡辺昭一)
第2章 「衰退国家の武器 イギリスのスターリング・バランスと開発支援」(ブライアン・R・トムリンソン)
第3章 「インド工科大学の創設と国際援助」(横井勝彦)
第4章 「時間と金の浪費? 1950年代のマラヤ、シンガポール、ボルネオ」(ニコラス・J・ホワイト)
第5章 「イギリスの対外援助政策の再編、1956~1964年」(ゲイロールト・クロゼウスキー)
第6章 「東南アジアに対する技術援助とイギリス広報政策」(都丸潤子)
第II部―コロンボ・プランをめぐる支援戦略とその変容
第7章 「戦後アジア政治・経済秩序の展開とエカフェ、1947~1965年」(山口育人)
第8章 「アメリカの冷戦政策と1950年代アジアにおける地域協力の模索」(菅英輝)
第9章 「二つの戦争の間の平和攻勢 フルシチョフのアジア政策、1953~1964年」(イリヤ・V・ガイドゥク)
第10章 「コロンボ・プランの変容とスターリング圏 1950年代後半から1960年代初頭」(秋田茂)
第11章 「多角的援助と「地域主義」の模索 日本の対応」(波多野澄雄・李炫雄)
第12章 「アジアにおける国際秩序の変容と日英関係」(木畑洋一)

各章の紹介については、序章において編者による紹介がなされているため、個別の章に関する紹介は避けるとして、ここでは本書が設定している上記4つの分析視角から本書の内容を再構成してみたい。

一、「コモンウェルスの再編」という視角

第一の「コモンウェルスの再編」という視角については、特に第I部のほぼ全ての章に通底する視角として描かれている。なかでも、渡辺論文・トムリンソン論文・クロゼウスキー論文・都丸論文などは、帝国=コモンウェルス体制の維持・再編のなかでコロンボ・プランが果たした役割を、特にイギリスの開発援助の地域的文脈や広報政策、スターリング・バランス問題(これについては第二の視角で詳述)などの観点から検証している。

まず渡辺論文は、コロンボ・プランの成立(1950年)をコモンウェルス成立(1949年)に続く一連の流れに位置付けながら論じている。戦後イギリス帝国体制は、従来の宗主国=植民地・自治領関係から、戦後脱植民地化を経て、イギリスと対等な独立国家群としてのコモンウェルス体制へと転換を遂げた。その後、これら新たに独立したアジアのコモンウェルス諸国の経済発展について、開発計画や技術援助の協議・調整を行うための枠組として、コロンボ・プランが形成されてゆく。その意味で、コロンボ・プランとは、当初はコモンウェルスの政治的紐帯と経済的安定に寄与する新たな枠組として成立したことを明らかにしている。
また都丸論文も、コロンボ・プランの広報政策を通じて、イギリスがコモンウェルスの再編に大きな影響を与えていたと論じている。そもそもコロンボ・プランとは、イギリスが地域開発計画を主導し、また現地住民の人心を掌握することで、イギリスの世界大国としての地位を維持するための政治戦略の一部でもあった。イギリスは、1954年のバンドン会議や1956年のスエズ戦争による非同盟・反植民地主義の高まりや国際的地位の失墜を受けた後も、「アジアのためのニュールック」政策というコロンボ・プランの活動と密接に関連した政策を導入し、この中でも広報政策の強化が謳われた。またコロンボ・プランは技術援助を中心としていたという特徴から、SEATOなどと比べて政治的に中立性を保ち、また広報政策を通じて少ない支出でも大きな効果を創出しやすく、イギリスの科学技術主導国としてのイメージアップを図るのに格好の手段であったことを明らかにしている。

このようにコモンウェルスの再編に大きな役割を果たしたとする見方の一方で、コロンボ・プランはコモンウェルスの再編に限定的な役割しか果たし得なかったとする論考も提示されている。例えばトムリンソン論文によれば、イギリスはポンド危機やスターリング・バランス問題など経済的に様々な問題を抱えており、コロンボ・プランを創設しながらもアジアのコモンウェルス諸国に対して十分な開発援助を実行する資源を持ち得なかった状況を克明に描いている。そのため、コモンウェルスはただ共通の利益・相互の尊重・共通の憲政的遺産により結合する国家間の共同体制に過ぎず、コロンボ・プランはその補完的役割を担うことを期待されただけとの限定的な評価を与えている。
またクロゼウスキー論文では、コロンボ・プランのみならずアフリカなど他の地域も含めた援助政策枠組を取り上げ、イギリスの援助政策の地域的文脈とコモンウェルスの再編を論じている。その中で、彼はイギリスの援助政策について、その起債能力などの問題から1956年を「転換点」と位置付け、それ以後の援助政策を主にマラヤとアフリカへの援助枠組の比較に力点を置いて論じている。まずマラヤ(1957年独立)は、イギリスの輸出信用のみならず、世銀や西ドイツやアメリカの開発借款基金(DLF)などイギリス以外の援助枠組を模索していった。それに対してアフリカは、イギリスの大蔵省ローンを通じた資本援助や行政官派遣を軸とした技術支援(OSAS)、さらにアフリカ向けコロンボ・プランであるコモンウェルス・アフリカ特別援助計画(SCAAP)や国連の援助枠組であるサブサハラ・アフリカ諸国相互援助計画(FAMA)など、新たな地域援助枠組を志向した。そのため、1950年の南アジアがコロンボ・プランを軸とするコモンウェルスの再編を達成したのとは対照的に、1950年代後半から60年代にかけてはイギリスの相対的役割が後退する中で、新たに地域ごとのバリエーションを帯びた多様な援助枠組を軸に、コモンウェルスの再編を行わざるを得なかったと結論付けている。

また見方を変えて、コロンボ・プランの「脱コモンウェルス化」という観点から、非コモンウェルス諸国への拡大と関与という点で、トムリンソン論文・山口論文・菅論文・ガイドゥク論文なども、この視角を考える上で重要な示唆を提供している。特に本書の中で意識されているのは、アメリカによる関与と役割である。例えばトムリンソン論文では、コロンボ・プランはイギリス及びコモンウェルス諸国の持つ資金的・能力的限界を克服する上で、早期の段階からアメリカの参加が不可欠とされた。その意味でコロンボ・プランは、単なるコモンウェルス独自の取り組みというだけではなく、アメリカを巻き込んだ上での旧植民地諸国支援という戦略的手段という意味も帯びていたことを示している。また菅論文では、アメリカは当初コロンボ・プラン参加への呼びかけに対して消極的であったものの、非コモンウェルス諸国参加や日本参加問題を通じて徐々に積極的に関与してゆくようになり、アジアの途上国を西側に惹き付けるための冷戦政策の一環として重視するようになった。だが他方で、アジアに対する地域主義構想の欠如、援助活用能力の限界、アジア諸国の自立志向を無視できなかったことなど、アメリカのコロンボ・プランを通じたアジア秩序再編には限界があったことも指摘している。
またガイドゥク論文では、冷戦期アジア諸国に対するソ連の援助政策を通じた「平和攻勢」を描いている。ソ連はフルシチョフ時代の1950年代半ばより、インドやビルマ・カンボジア・セイロン・インドネシアなどの諸国との二国間協定や、国連技術支援拡張計画(EPITA)を通じた支援を積極的に展開した。彼らの援助はアジア諸国においてソ連に対する中立的感情を向上させるだけでなく、ソ連の援助攻勢により西側諸国の援助も拡大するなどの間接的影響も及ぼしていた。だがソ連の援助は、経済モデルとしての効率性や魅力・援助額などで西側を上回れず、最終的には中ソ対立そして中印紛争による国際環境悪化のために「平和攻勢」が後退を余儀なくされてゆく様子を描いている。
さらに山口論文では、コロンボ・プランより先に創設されたECAFE(国連アジア極東経済委員会)に焦点を当て、当時のコモンウェルス諸国やアジア諸国や域外大国が開発問題をどう捉え、経済開発・政治状況はどのようなものであったかを描き出している。ECAFEはコロンボ・プランと異なりソ連も域外大国として参加していたものの、その役割は経済・開発問題の調査・研究や情報収集・分析・提供などに限定されており、また英米も参加国でありながらECAFEに消極的であった。だがそれでも、鉄道や開発計画・援助や貿易協力などでの実績をケーススタディーとして分析し、またECAFEとコロンボ・プランは相互に代表をオブザーバーとして会議に参加させるなど、ECAFEとコロンボ・プランの相互連携の意義を明らかにしようとしている。

二、「スターリング・バランス問題」という視角

第二の「スターリング・バランス問題」という視角であるが、これはイギリスが貿易決済・外貨準備・戦費調達のため大戦中に植民地や自治領諸国との貿易や預託によりプールされていた巨額のスターリング資金をめぐる問題のことである。戦後このスターリング資金をいかに活用するかという点について、自国の戦後経済復興や国際的通貨決済に優先的に活用したいイギリスと、元々は我々が預託した資金である以上独立後の経済開発のために凍結解除して活用したいとするコモンウェルス諸国(特にインド・パキスタン)との間で大きな問題となっていた。

この視角については、渡辺論文・トムリンソン論文・秋田論文が主に考察を加えている。渡辺論文とトムリンソン論文は、大戦直後からコロンボ・プラン成立直後までのスターリング・バランス問題を描いている。イギリスはポンド危機により交換性停止に追い込まれる厳しい状況にあり、その中で巨額のスターリング・バランスの活用をめぐって、植民地・コモンウェルス諸国との間で対立を繰り広げていた。最終的に1950年10月のロンドン・コモンウェルス諮問会議前までに、イギリスはコモンウェルス諸国に対してスターリング・バランスなどから6年で3.3億ポンドもの資金提供を約束することで決着する過程を論じている。
それに対して秋田論文では、1950年代後半から60年代初頭にかけてのコロンボ・プランを、スターリング圏の変容やコロンボ・プランの将来政策をめぐる議論から解き明かそうとしている。イギリスの援助全体のうち、資本援助はスターリング・バランスの取り崩し(ほぼインド・パキスタン向け)が中心で、資本援助全体の三分の二を占めていた。だが大蔵省・バンク共同作業部会がまとめているように、イギリスはスターリング・バランス減のため年間1億から1.5億ポンドの負担を予測しており、ポンドが弱体化しイギリスの経常収支が悪化した場合は、イギリスの資本援助能力は極めて限られてしまうことを示唆していた。その意味で、秋田は1958年をイギリスの援助政策の「転換点」と位置付けており、その後1961年大蔵省覚書が示唆しているように、イギリスはポンド強化を優先しつつも、資本援助から技術援助へと援助の比重を移すよう「安価な援助戦略」を求めていったと論じている。

三、「アジア諸国のイニシアチブ」という視角

第三の「アジア諸国のイニシアチブ」という視角では、特に渡辺論文・横井論文・ホワイト論文が、インドやオーストラリア、さらにはマラヤやボルネオなど英領植民地の果たした役割に焦点を当てて論じている。
まず渡辺論文は、コモンウェルス及びコロンボ・プランの成立を、特にインド及びオーストラリアの果たしたイニシアチブを中心に描いている。そもそも、戦後のイギリス帝国体制の変容に最も大きな影響を与えたのは、1947年のインド独立と共和制移行であり、これはイギリス連邦(British Commonwealth of Nations)の根幹である「王冠への共通の忠誠」からのインドの離脱を意味するものであった。イギリスはインド残留を確保すべく、「王冠への忠誠」要件を緩和し、さらにイギリスへの従属性を排除し諸国間の「自由な連合」へと発展させるために、イギリス連邦から「イギリス」の名を外して単に「コモンウェルス(Commonwealth of Nations)という名に生まれ変わったのであった。またコロンボ・プランの成立には、オーストラリアが終始積極的なイニシアチブを果たしていた。1950年1月にコロンボで開催されたコモンウェルス外相会議において、東南アジアの開発計画と技術援助のためのコモンウェルス協議体制の設立を促したスペンダー豪外相覚書が提示され、これがコモンウェルス諮問委員会の創設へと繋がっていった。さらにオーストラリアは、1950年5月に第1回のコモンウェルス諮問会議をシドニーで主催し、ここで各国は6カ年の開発計画を提出することが決定され、最終的に1950年11月に最終報告書の形で「コロンボ・プラン」として成立するのである。

また横井論文では、技術援助におけるインドの特異な役割を描いている。インドは、英豪などから専門家を受け入れたり研修生を派遣するなど最大の被援助国でありながら、他方でインドはセイロンやネパールなどから多くの研修生を受け入れる援助国でもあった。その意味で、インドはアジアの技術援助体制のハブとしての地位にあったと結論付けている。また同論文では、コロンボ・プランを通じたインドへの技術援助の実例として、インドでの工科大学の設立を取り上げている。それによると、戦後英・米・ソ・西独など各国の支援によりインド工科大学(IIT)が設立された一方で、コロンボ・プランの枠組では当初地方大学としてデリー工科大学が1958年に設立された。ただしその規模は、特にアメリカの大規模支援によるIITカンプール校設立比べると、極めて小規模で限定的なものにとどまっていた。そのような中でインドは、デリー工科大学を国家戦略上の重点大学と位置付けるべくIITデリー校として格上げし、イギリスにそのための更なる支援を迫った結果、イギリスはインドからの要請を受け入れざるを得なかった様子を描いている。

それに対してホワイト論文では、マラヤやシンガポールなどの英領植民地に焦点を当て、彼らにとってコロンボ・プランの意義がなぜ限定的なものに留まったのかについて論じている。彼らは独立前においては、宗主国であるイギリスに付随する形で間接的にコロンボ・プランに関与するに留まっており、むしろ植民地開発福祉基金(CD&W)や植民地開発公社(CDC)など、コロンボ・プランよりも以前からある援助枠組が活用されていた。また彼らはもともと石油やゴムなど資源に恵まれており、これらの輸出や採掘収入など独自の財源を持っていた。その意味で彼ら植民地は、コロンボ・プランの枠組においてイニシアチブを発揮する余地が限られていたとの評価を与えている。ただ技術援助については、コロンボ・プランの枠組を通じてオーストラリアやニュージーランド、カナダそして日本などから一定の重要な援助を受けていたため、決して無駄ではなかったものの、その規模は小さなものに留まっており、国連など他の援助枠組に比べて限定的なものであったと結論付けている。

四、「日本の役割」という視角

最後に第四の「日本の役割」という視角については、波多野・李論文と木畑論文が主に考察を加えている。波多野・李論文では、日本にとってコロンボ・プランは戦後国際社会への再参入を果たす上で日本の地域協力の推進基盤として適切な枠組と位置付けられていた。また、特にコロンボ・プランが技術支援を重視していたことは、日本にとって極めて有利な要素であった。ただし他方で、日本の戦後アジア地域主義構想は、「東南アジア経済協力機構」案や岸の「東南アジア開発基金」構想などに見られるように多国間主義(マルチ)を基調とするもので、二国間主義(バイ)を基調とするコロンボ・プランとは必ずしも相容れないものであった。このような日本の多角的地域主義構想は、1955年シムラ会議などでも否定されるに至り、1960年コモンウェルス諮問会議(東京会議)で日本は二国間主義を主張したイギリスを支持した様子を描いている。
また木畑論文は、コロンボ・プランを戦後日英関係の進展の中に位置付けながら論じている。イギリスは当初、日本の役務賠償を通じた東南アジアへの輸出拡大に神経質であり、また岸が「東南アジア開発基金」構想を考える上でコロンボ・プランを大いに意識しながらもイギリス側は警戒する姿勢を崩さなかった。だがその後、イギリスは対日姿勢を転換させ、西側自由世界の一員でありまたアジア・アフリカ諸国の一員でもある日本の特異な役割を評価し、アジアにおける主要な協力相手と見なすようになった。そして日本が東南アジアへの経済的関与を深める一方で、イギリスはマレーシア紛争やスエズ以東の撤退などで徐々に影響力を低下させてゆく過程を対照的に描いている。

本書の評価

本書は、以上のようにコロンボ・プランを様々な角度から捉えようと試みた意欲作であり、世界的にも最先端の研究水準を誇る学術的成果として高く評価すべきであろう。実際にコロンボ・プランを正面から扱った既存研究は、これまで必ずしも多い訳ではなかった。イギリスの対東南アジア外交史研究の泰斗 であるターリング(Nicholas Tarling)や、オーストラリアの側から見たコロンボ・プランを描いたオークマン(Daniel Oakman)による研究、また博士論文としてはコロンボ・プランの成立をイギリスやインドの立場から解き明かしたキャリア(Philip Charrier)や、コロンボ・プランに見られる国際援助の地政学の観点から研究を行ったアデレケ(Ademola Adeleke)などによる代表的著作を除くと、基本的には個別論文による研究が散見されるか、あるいは研究主題の延長線上に浮上する周縁的な関心対象として意識されてきたに過ぎなかった。またこれまでコロンボ・プランに関する論考が最も多いのは、少なくとも日本国内では1950年代から60年代にかけて現状分析あるいは同時代史的な関心から生まれたものであり、それ以降は中心的な研究対象としてはいささか置き去りにされてきたテーマであった。このような研究状況の中で、本書が国際共同研究の賜物として最新の知見を織り込んで生まれたことは、極めて意義のある成果発信であると言えるだろう。

特に本書の中でも評価すべき点としては、以下の点である。第一に、本書の持つ複眼的な分析視角である。これまでコロンボ・プランという事象を扱う上で、最も伝統的な学問分野はイギリス帝国史研究の領域であった。それは、コロンボ・プランが元々コモンウェルス諸国によって生み出されたことや、アジアの旧植民地の経済発展とコモンウェルス体制への政治的求心力を高めるための手段という意味合いも持っていたことを考えると、ある意味当然の流れであった。だがそれだけに留まらず、本来コロンボ・プランはコモンウェルス以外の様々な国々も参加しており、また当時の複雑な国際環境の影響を受けた末に成立・発展してきた枠組であったことを考えると、当然これだけでは不十分である。それを克服するために、本書は4つの分析視角を導入し、冷戦という要素や、アクターとしてはアメリカ・ソ連のみならず国連機関であるECAFE、また政策的側面としても単なる経済開発援助だけではなくスターリング・バランス問題や広報戦略など、様々な側面からコロンボ・プランの持つ多面的な像を描き出すことに成功している。
第二に、日本からの視点を提示していることである。コロンボ・プランに関する先行研究は、これまでその多くがイギリスやコモンウェルス諸国をはじめとする英語圏における研究に偏っており、日本からの視点が盛り込まれた研究はこれまで限られたものに過ぎなかった。そのような中で、本書が提示している様々な知見は、特に以下の二つの分野において大きな知的貢献を成していると言えるだろう。ひとつは日本外交史研究であり、もうひとつは日本のイギリス帝国史研究という学問領域である。前者は日本語を母語とし日本の研究資源を活用し得る環境から、日本の側から見たコロンボ・プランの意義を解き明かしたという意味で他国の研究事業では決して達成し得ないものであり、後者もまた日本のイギリス帝国史研究を代表する若手から重鎮までを揃えた執筆陣による最先端の研究成果を盛り込んでいるという意味で、本書の持つ学問的価値を飛躍的に高めている。今回本書の英語版が刊行されるということは、国際的にも大きな知的貢献をもたらすものとなり得るだろう。

以上のような好著であることは疑いないものの、評者からは敢えて本書に対して以下のような若干の問題点を提起したい。

第一に、「開かれた地域主義」に繋がったという議論について。本書は、コロンボ・プランが戦後アジアにおける「開かれた地域主義」の萌芽や地域協力の起点となったと位置付け、その後1980年代末のAPEC創設のような「開かれた共同体」「開かれた経済」などへと繋がっていったとするインプリケーションを提示している。興味深い視点ではあるが、この点についてはもう少し慎重に議論を進める必要があるように思われる。おそらく本書から合理的に読み取れる論証としては、都丸論文とクロゼウスキー論文にあるコモンウェルス・アフリカ特別援助計画(SCAAP)の創設が挙げられよう。アフリカ向けコロンボ・プランとも呼ばれたSCAAPは、コロンボ・プランと同様に技術援助を中心としつつ資本援助も行い、また非コモンウェルス諸国をも対象に含め、二国間主義を原則として援助の実施・調整を行うといった方式が取られるなど、コロンボ・プランがその創設に大きく影響を与えたことが窺える。
本書は、コロンボ・プランを他の同時代的な援助枠組や構想と並べることで、他の枠組との連関性を重要な問題意識として捉えているように思われる。ただし、コロンボ・プランが戦後アジアにおける地域主義構想やトランスナショナルな経済枠組にいかにして連なっていったのかという問題は、内在的な問題意識を超えて、より具体的な検証が必要とされるべきであろう。今後更なる実証的な研究が俟たれるところである。

第二に、本書に通底する問題意識として共有されていながら分析視角として欠落していた重要な要素として、以下の二つについては特に明示すべきであったように思われる。ひとつは「冷戦」という視角、そしてもうひとつは「コロンボ・プランの歴史的・相対的位置」という視角である。
「冷戦」という視角は言うまでもなく戦後国際環境を規定する最大の要素の一つであり、本書においてもコロンボ・プランならびにその他が冷戦の影響を受けた様子が描かれている。例えば、コロンボ・プランの役割をアジアにおける共産主義拡大の防止や西側との結び付きに求めた渡辺論文や都丸論文、アメリカとソ連の援助戦略を論じた菅論文及びガイドゥク論文、ECAFEの限界の一つに英米ソら域外大国の冷戦対立を挙げた山口論文、そして戦後アジア冷戦の中で日本の援助政策を論じた波多野・李論文など、多岐にわたる。また本書における「アジア諸国のイニシアチブ」という分析視角は、アジア諸国が米ソ冷戦支配の影響を排除しつつ第三世界・非同盟諸国として自立性を保とうとしていたとする冷戦に対するアンチテーゼを含んでいる。そう考えるならば、「冷戦」という視角を単なる暗黙の前提として捉えるのではなく、分析視角のひとつとして明示する形で設定した方が、本書の問題意識を更に明確に高めることに繋がったのではないかと思われる。
また本書は、コロンボ・プランを中心的対象としているが、その実コロンボ・プランの枠組以外の援助も扱っている。特にクロゼウスキー論文と秋田論文では、イギリスの援助の全体像を探ろうとしている。それによると、コロンボ・プランによる技術援助と資本援助の他にも、本書で焦点の一つになっているスターリング・バランス取り崩しによる資本援助(対インド・パキスタン)や、軍事援助(対マラヤ)、民間ローン、輸出信用、その他金融市場を通じての援助にも分析の射程が当てられている。これらはコロンボ・プランの枠組外での援助であった。さらにクロゼウスキー論文や都丸論文ではアフリカ版コロンボ・プランであるコモンウェルス・アフリカ特別援助計画(SCAAP)、菅論文や秋田論文ではアメリカ独自の援助枠組として国際開発協会(IDA)や大統領特別基金(FAED)や開発借款基金(DLF)、さらには山口論文のECAFEのように国連や世銀の援助などに対する言及もなされている。これらで意識されているのは二つあり――ひとつはイギリスの開発援助政策の全体像を明らかにすること、もうひとつはコロンボ・プランを他の援助枠組と並置して相対化することによって、コロンボ・プランの「相対的位置」を測るというものである。このような問題意識を考えるならば、コロンボ・プランをその他の援助枠組と比べて相対化するという視角は本書の中でも極めて重要な位置を占めており、また本書の持つ学術的価値を一層高める本質的要素であるように思われる。

ただしここで挙げた問題点は、本書の持つ学問的価値を損なうものでは決してない。本書は、これまで本格的な研究対象から置き去りにされてきたコロンボ・プランに対して、複眼的な視座から捉えることでより重層的な像を提示することに成功しており、国際的にも最先端の水準を示す研究として今後も参照されてゆくであろう。
現在、編者を中心として「戦後アジアにおける欧米諸国の開発援助戦略とアジアの自立化に関する総合的研究」という後継の科研費プロジェクトが進行している。本書はひとつの到達点でありながら、同時にこれを起点として更なる優れた研究が今後も生まれてゆくことを願ってやまない。
    • 公益財団法人世界平和研究所研究員
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