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【書評】深町英夫 編『中国議会100年史:誰が誰を代表してきたのか』(東京大学出版会、2015年)

June 20, 2016

評者:光田 剛(成蹊大学法学部教授)

本書は、1912年の中華民国成立以来現在までの、中国の「議会」または「議会的な国家機関」の通史を描こうと試みたものである。

中国大陸の中華民国時代は、1912年から1928年までの「民国前期」と、それ以後、1949年までの「民国後期」に大きく分けることができる。「民国前期」は、北京に全国政府があった時代で、北京政府時代ということもできる。「民国後期」は、国民党を統治政党とする時代で、首都は南京だが、抗日戦争(日中戦争)によって重慶を臨時首都にしていた期間もある。

1949年に中国大陸で中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台北に移転して「台湾の中華民国」の時代が始まる。中華人民共和国は、1976年に世を去る毛沢東の時代は社会主義による社会改造を性急に追求した時代であり、その後、1980年代からは、社会主義の名を掲げる国家のもとで市場経済の道を追求する「改革・開放」の時代となった。また、台湾の中華民国も1980年代後半から1990年代前半にかけて急速に民主化を達成し、それまで凍結されていた国会議員(立法委員)の選挙、総統の直接選挙が制度化されるにいたった。

この中華民国成立以来100年あまりの政治史を「議会」を中心に据えて描こうというのが本書の基本構想である。第I部が中華民国前期、第II部が中華民国後期、第III部が中華人民共和国の成立から第一回全国人民代表大会が開催される1954年まで、第IV部が改革開放期を扱っている。

第I部は、ジョシュア・ヒル「「選挙運動は不当だ!」:第一回選挙への批判」、王奇生「「神聖」から「唾棄」へ:国会への期待と幻滅」、金子肇「民意に服さぬ代表:新国会の「議会専制」」の3論文から構成される。清朝が倒れ、国会が開設されて、中華民国の世論は国会に対して過剰といえるほどの大きな期待を持った。しかし、選挙民の理想とは大きくかけ離れた、利益や名声に頼った選挙運動、国会での議員の品行などが幻滅を誘い、国会への期待は一転して失望に変わった。それは、国会が、当時の国家的課題だった「国家的・国民的危機からの脱出」(「救亡」)の担い手になってくれるという期待が大きすぎたせいでもあるが、また、国会議員自身が、民意や、議会を背後で支えている軍集団(いわゆる「軍閥」)の意向に反してまでも自らの利益を優先して議会運営や立法活動を行ったことの結果でもあった。個々の議員への失望は、やがて、ロシア革命によるソビエト(ソヴィエト)モデルの登場とともに、国会そのもの、議会制度そのものへの失望へと発展する。

第II部は、孫宏雲「地域代表か? 職能代表か?:国民党の選挙制度」、中村元哉「一党支配を掘り崩す民意:立法院と国民参政会」、汪朝光「権威主義的指導者と議会:蒋介石の自由民主観」の3論文から構成される。国会への不信が広がるなか、孫文は地域代表ではなく職能代表による「国民会議」を構想した。これは後継の蒋介石の国民政府に受け継がれ、蒋介石政府は職能代表的な国民会議によって一時的な基本法「訓政時期約法」を制定した。抗日戦争が始まると、職能代表的な性格を併せ持つ「国民参政会」が設置されたが、1946年に中華民国憲法が制定されると、ついにそのうちの立法院に選挙制度が導入される。孫文や蒋介石の職能代表議会構想は国民党の一党支配制度と組み合わされ、これと矛盾しない制度として使われつづけたが、その制度のもとでも、また中華民国憲法下で国民党が圧倒的多数を占めた立法院でも、議員は国民党の一部と連携して一党支配制度に抗する立法活動を続けた。

第III部は、杜崎群傑「前衛党と党外勢力:建国期の「人民代表会議」」、水羽信男「実業界と政治参加:第1回全人大と中国民主建国会」、張済順「「国家の主人公」の創出:第1回人民代表普通選挙」の3論文から構成され、補論として深町英夫・張玉萍「民族/民主:国共両党政権と満族の政治参加」を掲載する。中華人民共和国初期、全国人民代表大会は開かれておらず、人民代表会議と、共産党以外の「民主党派」も含めた人民政治協商会議が議会的な機関として存在した。共産党はその主導権を「党グループ」(「党小組」)などを駆使して確保したが、後の人民代表大会に較べればその影響力はまだ脆弱であった。商工業者の利益を代表する中国民主建国会(「民主党派」の一つ)も、普通選挙を通じて議会の多数を占め、独裁権力を確立するという共産党の戦略に応じつつ商工業者の権利を守ろうとしたが、その過程でも、また全国人民代表大会成立後も共産党がさまざまに加えてくる圧力に抗しきれなくなる。その全国人民代表大会の選挙では、共産党によって、工場労働者、女性、少数民族などが「国家の主人公」になったことが大々的に宣伝され、共産党支配の正統化に用いられたが、共産党の誘導にかかわらず独自の動きを示した選挙民もいた。なお、補論は、中華人民共和国成立の40年前まで「支配民族」であり、その指導層の一部が「満洲国」に参加したという特殊な経歴を持つ「少数民族」としての満族の政治参加について論じたものである。

なお、こうして、共産党と中国社会とのせめぎ合いのなかで成立した全国人民代表大会であったが、1950年代後半からは急速な社会主義化が進められたこともあって、独自性を喪失し、共産党の政策を追認するだけの「ゴム印」と化してしまう。

この時期については本書では論じられておらず、改革開放後、とくに21世紀になってから、全国人民代表大会がともかくも共産党から一定の自立性を回復した後を論じる第IV部に飛ぶ。

第IV部は、中岡まり「権威主義的「議会」の限界:地方選挙と民意」、加茂具樹「人大に埋めこまれた機能:代理・諫言・代表」、石塚迅「立憲主義か民主主義か?:中国大陸と台湾」の3論文から構成される。この段階でも、全国人民代表大会は、議会とは異なる権力機関で、せいぜい「権威主義的議会」と呼ぶべき程度のものである。しかも、権威主義的国家の議会や議会選挙が有している情報収集の機能や野党勢力の分断の機能は最初から問題にならず、「体制の盤石さを知らしめるシグナリング効果」と「パトロネジ分配の実効化と効率化」の機能を果たすのみである。しかし、全国人民代表大会には、体制側の「代表」、体制に対する「諫言」の機能が埋めこまれており、さらに体制に対する社会の要求の「代表」の機能も果たしている。これらは共産党体制の「統治の有効性の向上」の機能を果たしている(なおここで「人民代表」の階層分析が行われている。労働者・農民の代表の比率の低さが印象的である)。立憲主義と民主主義の相克に関しては、台湾では問題になる状況が現れ始めているが、中国ではまだ「立憲主義か民主主義か」という問題の立てかた自体が時期尚早な状況であるとする。

現在から振り返って見れば、近代中国の歴史のなかで、議会や議会的国家機関が「主役」になった時期などなかったかのように見える。北洋軍の指導者袁世凱、その後継者の段祺瑞、「知るは難く行うは易し」と唱えて革命の指導権を独占しようとした孫文、その後継者で独裁的なメンタリティーの持ち主だった蒋介石、そして、毛沢東とその後継者たちと、近代中国の政治史の主役は常に「独裁者」だった。

しかし、その時代のなかにあっては、違ったのである。かつて「北洋軍閥時代」とされていた北京政府期にも国会が国民の大きな期待を担っていた時期があり、その議員たちも、その「軍閥」の武力に支えられながら、「軍閥」の意向に反して自分たちの利益を優先しようとさえした。初めから一党支配と矛盾しないように設計された国民党期の議会的機関でも、「民意」の代表は必ずしも国民党に従順なばかりではなかった。中華人民共和国の共産党独裁権力の成立初期にも、共産党はそれまでの被抑圧集団が一躍国家の主人公になったことの喜びを宣伝して回らなければ

ならなかったし、現在も、人民代表が一定の社会の「代表」の役割を担っている。

中国の「民意」の動きは、独裁的な体制の連続という外観に覆われて見えにくくなっている。それが、困難な状況下で「民意」機関にいかに表出されて行くかを、通史として描ききったことが、本書の大きな意義だろう。それは、現在の中国のリベラリズムの研究などと相まって、大きな転換期にある中国の今後を観るうえでも重要な視点になるに違いない。

一方で、この研究の困難さは、この近代中国の歴史のなかで「議会」とは何かということ自体の定義しづらさに発するのではないだろうか。

大ざっぱに分類すると、議会的国家機関には、立法部としての議会と、「すべての権力」を独占する「ソビエト型の議会」とが存在する。立法部としての議会の権力は執行(行政)部や司法部によって制約されるが、「ソビエト型の議会」は行政や司法を指揮しうる地位にあり、事実上はともかく、制度上は行政や司法に制約されない。立法部としての議会は憲法にその存立と権限とを規定されるが、「ソビエト型の議会」は必ずしもそうではない。

西側の議会制民主主義の議会は、大統領制・議院内閣制に関わらず「立法部としての議会」であり、かつてのマルクス‐レーニン主義国家の議会は「ソビエト型の議会」である。現代中国の全国人民代表大会は「ソビエト型」であり、中華民国前期の国会は「立法府としての議会」である。

もっとも、この定義はかなり大ざっぱなものである。たとえば、イギリス(イングランド~連合王国)の議会は「立法部としての議会」にいちおう分類される。しかし、かつてのイギリスでは「議会は、男を女にし、女を男にする以外は何でもできる」と言われたほどに「すべての権力」が議会に集中していた。行政府は議会を基礎に構成され、ごく近年までは最高裁判所の役割も形式的には議会が担っていた。また、「ソビエト型の議会」といっても、ソ連と中国のあいだでも「ソビエト」をめぐる制度には違いが存在した。逆に、立法権も十分に持たず、まして国家の全権など握りようもない弱い議会だってある。中華民国後期の国民会議や国民参政会がこれに相当するだろう。

だから、「立法部としての議会」と「ソビエト型の議会」の二つに整然と分けることはできないのであるが、このような分類をしてみることは、本書の分析にとって有益だったのではなかろうか。

ところが、本書では「ソビエト型の議会」というあり方が十分に意識されていない。もちろん、中国の人民代表大会を権威主義国家の議会と比較することに意義がないとは言わない。たしかに議員(または人民代表)選挙の点から言えば人民代表大会は権威主義国家の議会と比較するのが適切なのかも知れない。しかし、パク・チョンヒ(朴正煕)の維新体制下の韓国の国会にせよ、スハルト体制下のインドネシアの国会にせよ、いちおうは「立法部としての議会」の体裁をとっていたのであり、中国の「ソビエト型の議会」である全国人民代表大会をいきなりこれらの議会と比較するのはやや乱暴ではなかろうか。いちおうは野党が存在する権威主義体制下の議会と比較すれば、中国の人民代表大会の人民代表(議員)選出の機能が「体制の盤石さを知らしめるシグナリング効果」と「パトロネジ分配の実効化と効率化」に偏って見えるのは当然である。一方で、維新体制には国家の全権を握る統一主体国民会議という会議体があり、スハルト体制下のインドネシアには同様の国民協議会という会議体が存在した。また、中華民国後期の体制には、同様の会議体として「国民会議」が(いちおう)存在した。制度としてみたばあい、権威主義国家と比較するにしても「国家の全権を握る会議体」(つまり、マルクス‐レーニン主義国家ではないが「ソビエト型の議会」)との比較があってよかったのではないかと思う。もちろん、できれば、旧ソ連のソビエト制度との比較も、である。

もう一つ、本書を読んで、国際共同研究の難しさも感じた。本書は、さまざまな国の研究者が一つのテーマを論じることで編まれた通史という特徴がある。それは大いに意義のあることである。しかし、同時に、それぞれの研究者が育ってきた場の「ディシプリン」は異なっている。用語法も違えば、問題関心の持ちかたもやはり違っている。ある「ディシプリン」で書かれたある時期の研究の次に、別の「ディシプリン」に則って書かれた別の時期の研究が続く。これでは、読者は、一つの連続した「議会史」像はつかみにくいのではなかろうか。

だがこのテーマによる研究の本格化はまさに「始まったばかり」である。たとえば、10年ほど前まで、史料に即した中華民国の立法院の研究などまだ十分に行える状況になかった。現地調査に基づく中国の人民代表大会の研究も同じである。そのような制約のなかで、たとえば、中国は専制国家や独裁国家であることを運命づけられているという「常識」ができてしまっていたのだとすれば、本書がむしろ「粗削り」なままにその研究の現状を示してくれたことに大きな意義を見出すべきだろう。

なお、評者は本書について『東方』2016年4月号にも評を発表している。こちらの評もお読みいただければ幸いである。今回はその内容となるべく重ならないように評を展開したつもりである。

    • 政治外交検証研究会メンバー/成蹊大学法学部教授
    • 光田 剛
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